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祇園祭と宮本組について
貞観11(869)年、天下大疫の時、時の帝・清和天皇の勅を奉じて神泉苑に66本の矛を建て、感神院祇園社(現在の八坂神社)の神輿を渡御して、天下太平、疫病消除の祈りを捧げられました。これが祇園祭(祇園御霊会)の始まりです。
天延2(974)年、円融天皇より洛中に御旅所の地が寄進され、素戔嗚尊(牛頭天王)、櫛稲田姫命(婆利采女)、八柱御子神(八王子)の三座の神様を祇園社から都へ迎え(神幸祭)、7日間ご神威をいただいてお帰しする(還幸祭)という祭礼の形が定まりました。その後、神々をお迎えするために都大路を浄化する神事風流として発展した山鉾行事は、国の重要無形民俗文化財、ユネスコの無形文化遺産として知られる通りです。
京都市中心部に広がる八坂神社の氏子区域のうち、神社お膝元である祇園町の氏子による組織が宮本組です。花街が形成され、有力な茶屋衆が生まれた江戸時代初期以来、祇園町の氏子たちは神様のお旗本衆として、神職を補佐し、神輿を先導する重要な役目を承ってきました。宮本組は現在も祇園町の住人を中心に、有縁の氏子崇敬者によって構成し、年間を通じて神様の御用にご奉仕しています。
祇園祭では、氏子を代表して神輿洗神事や神事済奉告祭を主宰するほか、神幸祭、還幸祭では円融天皇の勅命の由緒を記した「勅板」を奉じて行列を先導し、「御矛」「御盾」「御弓」「御矢」「御剣」「御琴」の六種のご神宝を捧持して神輿に供奉する中核的な役割を担っています。これらのご神宝は承応3(1654)年、本殿再建とともに四代将軍徳川家綱公によって奉納された由緒ある宝物です。重要文化財に指定されているものもあり、現在は写しが使われていますが、特に許された者以外は触れることができない神器とされています。
未曾有のコロナ禍では、感染拡大防止のため神輿渡御や山鉾巡行が縮小されましたが、祇園祭は一度も中断することなく、八坂神社では白馬の背に三座の御神霊をお遷しして氏子区域を隈なく渡御され、宮本組は普段と同様に神様のお側近く、勅板やご神宝を奉じて行列にご奉仕しました。1150年前、疫病消除を祈って始められた祇園祭を先祖から受け継ぐわれわれ宮本組は、今年も、これからも、コロナ禍を乗り越える祈りを込め、天下万民の無事を祈って、祇園祭にご奉仕し続けます。
書籍「祇園の祇園祭: 神々の先導者 宮本組の一か月」

出版社 : 平凡社 (2019/9/17)
発売日 : 2019/9/17
言語 : 日本語
単行本 : 314ページ
ISBN-10 : 4582838065
ISBN-13 : 978-4582838060
解説リンク集
「清々講社・宮本組」に関連するリンク一覧
祇園祭清々講社・宮本組(氏子組織) (kyototravel.info)
清々講社は1872年(明治5年)に祇園祭の山鉾の運営をサポートする寄町制度が廃止され、1875年(明治8年)に祇園祭の山鉾巡行・神輿渡御の運営をサポートする募金組織(協賛組織)として結成されました。宮本組は清々講社の第1号に指定された筆頭格の氏子組織です。宮本組は祇園祭の神幸祭・還幸祭で重要な神事を担っています。(祇園祭清々講社・宮本組(氏子組織) (kyototravel.info))
【清々講社・宮本組 歴史・簡単概要】
清々講社(せいせいこうしゃ)は1872年(明治5年)に祇園祭の山鉾の運営をサポートする寄町制度(よりちょうせいど・地之口米(じのくちまい)の制度)が廃止され、1875年(明治8年)に祇園祭の山鉾巡行(前祭・後祭)・神輿渡御(神幸祭・還幸祭)の運営をサポートする募金組織(協賛組織)として結成されました。寄町制度(地之口米の制度)は安土桃山時代に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が制定したと言われています。寄町制度では表間口の長さを基準として町人に賦課する地子銭(じしせん)が廃止され、山鉾を運営する山鉾町周辺の町や土地を指定し、最高の三石余りから最低の一斗以下までの山鉾運営資金・地ノ口米が徴収され、山鉾町から寄町に粽(ちまき)などが贈られました。ちなみに長刀鉾(長刀鉾町)は堀之内町・立売西町・童侍者町・水銀屋町・松原中ノ町(松原中之町)・坂東屋町・姥柳町が寄町とされました。松原中ノ町(松原中之町)では現在も祇園祭の非公式行事である古式一里塚松飾式が行われ、長刀鉾稚児・禿(かむろ)が町会所・祗園床(ぎおんどこ)を訪れています。なお山鉾町では1923年(大正12年)に山鉾連合会の前身である山鉾町連合会が結成され、京都市から補助金を受けました。
宮本組は清々講社の第1号に指定された筆頭格の氏子組織です。宮本組は八坂神社のお膝元で、旧学区・弥栄(やさか)学区の住民・店主などの氏子などで構成されています。宮本組は祇園祭の神幸祭(しんこうさい)・還幸祭(かんこうさい)で重要な神事を担っています。なお宮本組は平安時代以来、八坂神社の社家に仕えて神事・社務の補助や雑役を行った下級神職・寄人である神人(じにん・社人(しゃにん))にルーツがあるもと言われています。八坂神社では神仏習合時代に寺務を統括する別当(べっとう)、執行家である社家(しゃけ)があり、室町時代初期に執行家が宝寿院(ほうじゅいん)の院号を称する家系に統一され、その後執行代として宝寿院の庶流である宝光院・神福院が誕生し、祇園の三院と言われました。また竹坊・松坊・東梅坊・西梅坊・新坊の坊舎が誕生し、祇園の三院五坊と言われていたが、1868年(明治元年)の神仏分離令によって神宮寺・観慶寺(かんけいじ・祇園寺)が廃寺になって仏教建造物は全て破却され、社僧は全員還俗しました。
【宮本組 行事・イベント(要確認)】
宮本組は7月17日の神幸祭・7月24日の還幸祭の際に錦の袋に入れられている第64代・円融天皇の勅板(ちょくばん)や矛・楯・弓・矢・剣・琴などの神宝奉持列を整えて、八坂神社の主祭神・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の神霊をのせた中御座神輿(なかござみこし)の前を巡行します。円融天皇は平安時代中期の974年(天延2年)に八坂神社の神輿に鴨川を渡って平安京を渡御するように勅命し、勅板にはその宣旨(せんじ)が記されているそうです。ちなみに勅板は先端が山の形をした縦約183.4センチ・幅約20.7センチ・厚さ約1センチで、上部に「感神院政所(かんしんいんまんどころ)」、その下に3行・109字「円融院御宇天延二年五月下旬比、以先祖助正居宅高辻東洞院為御旅所可有神幸之由有御神詫之上、後園有堺塚蛛糸引延及当社神政、所司等恠之尋到通助正之宅畢、助正感夢去七ヶ日可有鎮坐之由所司等経奏聞之處、以助正為神主、以居宅可御旅所之由、致宣旨」が墨書され、裏面中央に「天延二年(974年)六月七日」と記されているそうです。宮本組は山鉾町と同じように7月1日に吉符入りし、くじ(籤)引きによって勅板・矛・楯・弓・矢・剣・琴などを奉持する担当者を決定しています。(神宝は中御座神輿・東御座神輿・西御座神輿の3組あるが、現在神宝奉持列は中御座神輿だけになっています。)なお宮本組は7月10日の神用水清祓式・神輿洗、7月28日の神用水清祓式・神輿洗、7月24日の花傘巡行など11日間・26行事に奉仕しているそうです。
宮本組では1990年代頃から7月上旬頃に祇園祭の無事を祈願する為に円融天皇・後村上陵(のちのむらかみのみささぎ)を参拝しているそうです。
第64代・円融天皇の時代(969年(安和2年)~984年(永観2年))、970年(天禄元年)から祇園祭(祇園御霊会)が毎年行われるようになり、6月7日に神輿を迎え、朝廷や院から馬長(うまおさ)・田楽(でんがく)・獅子(しし)などが奉納され、6月14日に神輿を送りました。(祇園祭清々講社・宮本組(氏子組織) (kyototravel.info))
祇園祭 清々講社 – 京に癒やされ by 五所光一郎 [京都ブランド.COM] (kyoto-brand.com)
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清々講社とは
平安時代の貞観11年(869年)、京で疫病が流行した際、神泉苑に66本の鉾を立て、祇園の神を迎えて災厄消除を祈った祇園御霊会をルーツとする祇園祭。
その御霊会の原点は、現在の7月24日(旧暦6月14日)の後祭(還幸祭)なのである。
町衆の鉾による露払いが巡行し、神輿が氏子町を練り歩き、あらゆる災厄を神輿に積み込み祓っていく重要祭事だったのである。
1100年を超える歳月の中、祇園祭にも浮沈や変遷の歴史はあった。
しかし、消滅することなく継承されてきたのは町衆の愛着と努力であったに違いない。時代が変わり人が変わっても、伝統は、新たな知恵と工夫を道連れにして脈々と引き継がれてきたのである。
中でも、八坂神社の氏子組織の結束と奉仕活動が、いつの世もそれを支えていたようだ。
例えば、豊臣秀吉が定めたという寄町制度がある。
鉾町の山鉾巡行を維持するため、鉾を保有する鉾町を補助する数ヶ町を定め、人力と財力を援助する義務を課したという。
祭の執行には最適で優れた制度であったところ、明治5年寄町制度が廃止となり、鉾町は経済的危機に見舞われ、鶏鉾や月鉾は質入、譲渡される事態に陥ったという。
その時、この危機を脱する為立ち上げられたのが、募金組織となる清々講社であった。
清々講社は氏子を駆け回り浄財を募り、没落した山鉾町の負債を救済し、この二つの鉾を守ったと聞き及ぶ。
清々講社とは、八坂神社の氏子区域全域に亘る旧25学区からなる京都特有の町衆組織である。
その町衆組織清々講社の一つに「宮本組講社」がある。八坂神社のお膝元である弥榮学区の住民、店主や地主で構成されている。
他学区に比較して歴史の古い講社で、平安時代より神社周辺に住んだ人たちの地域で、熱心に神社に奉仕してい由縁と誇りから、「お宮の本にある宮本組」と称され、清々講社のなかでもその重要な役割を担う筆頭の講社である。
神社に奉納されている石灯籠や建造物などを注意して見てもらうとよい。これらの講社の名を目にするはずだ。
これらの講社があるからこそ、祇園祭は年々歳々に執り行えているのである。
一ヶ月間に及ぶ祇園祭に奉仕する団体の数は多い。
山鉾巡行は各鉾町と祇園祭山鉾連合会が担い、神輿渡御は三若、四若、錦の各神輿会が担い、花笠巡行は、祗園万灯会、祗園太鼓研究会、子鷺舞、祗園田楽保存会、先斗町・祗園東・祗園甲部・宮川町の各お茶屋組合・久世六斎保存会・京都織物卸商業組合などが担っている。
その他の奉納行事もあるが、それらの全執行調整と総括を行っているのが清々講社なのである。
いわば、祇園祭のプロデューサーと言えるだろう。
例えば、山鉾巡行の籤取り式には、八坂神社宮司と並び清々講社幹事長が壇上に座っている。
あるいは、神輿洗い、お迎え提灯、神幸祭、還幸祭、鉾建て、曳き初め、山鉾巡行、花笠巡行などの道路使用許可は、清々講社の名で申請が行われていると聞く。
勿論、補助金や協賛金などの募金活動、予算配分は主体事業である。
宮本組とは
では宮本組講社はどうだろうか。
神輿洗いの日、「道調べ」の大松明や中御座を担ぐのは四若神輿会であるが、派手な一面に目を奪われていて、それらを先導し、仕切っている宮本組の提灯にお気づきでないのでは。また、神輿を洗う神水を汲み上げる神事を見落されてはいないだろうか。
紋付き袴姿の宮本組講員は、仲源寺より四条大橋に建つ斎竹(いみたけ)に向かい、羽織を脱ぎ、綱のつけられた桶で鴨川の水を汲み上げ、神官と「神用水清祓式」を執り行っている。
それは、鴨の水の神様をまず神輿に迎え、八坂さんへ奉じることが祇園祭の神事の始まりであるという象徴的で、一番厳粛な神事だからである。
更に、神幸祭、還幸祭の神輿渡御の前に、先行先導する行列をご存じだろうか。
神幸祭なら、石段下で三基の神輿が揃い踏みで「差し回し」を行ない、楼門前は歓声に涌いている。その直前である。南門から出発し石段下から四条通を御旅所へ向かう行列がある。「神宝奉持列」の幟が掲げられている。
朱の差掛け傘に狩衣を着て白い手袋、紫の袱紗(ふくさ)で御神宝を奉持しているのは、まさしく「宮本組講社」の講員らである。
平安時代以前の神様の行列は、御神体と神様が身に着ける御神宝と御装束は一緒に巡幸したという。その古式を今に残しているのが祇園祭である。
「神宝奉持列」の先頭は「勅板」で、天延二年(974年)、神輿が鴨川を渡り平安京を渡御するように命じた円融天皇の勅令が書かれていると伝わる。
続く御神宝は、矛、楯、弓、矢、剣、琴など武具や楽器であった。
後尾に騎乗の稚児が見えた。綾戸国中神社の久世駒形稚児である。
素盞嗚尊(スサノオノミコト)の荒御霊を胸に、後続する中御座神輿の素盞嗚尊の和御霊と合体するのである。
四条御旅所に神輿とともに駐輿(ちゅうれん)安置され、還幸祭で八坂神社へおかえりになるまで、御神宝を持つことを許されているのは、古来より宮本組だけなのである。